いつか愛せる

DVのその後のことなど

正しさとは? 多分みんなが「幸せ」になること

「自分が正しい」と思い込んで、考えの違う他者を否定しちゃいけないと思う。人の価値観はそれぞれだから、犯罪でも起こさない限りは誰も間違ってはいない。でも頭ではそうわかっていても「これが常識でしょ」と自身の価値観で考えてしまうことは多い。ひょっとして人間と人間の関係が悪くなる原因の多くは、そこにあるかも知れない。

◆正しいとは? そもそも「正しい」とは何だろう。算数やクイズの正解とは違う。道徳や哲学や世の中全体にかかわる価値観の正しさ。ひとりひとり全員が違うから「正しさ」も人の数だけあるの? でもそれでは正しさの意味がない。

 信頼できる人に聞いてみた。その人はしばし考えてから「なるべく多くの人が幸せになることが正しいことだと思う」と答えてくれた。ポイントは、人間が幸せになれるかどうか。

ああそれ! 私がはるか昔に考えたことと同じ。どうしようもなくノンポリだった若き日の私が、珍しく考えた「正しさ」の定義と同じことを言われるとは。(昔の私のノンポリシーぶりは↓こちら)


 ◆なるべく大勢が幸せに 「こう考えれば多くの人が幸せになれる」ことが、一番正義に近いと思う。ただ恐らく、ひとつの正義だけで全員を幸せにするのは無理。例えば「他人の不幸を喜ぶ」人がいれば、絶対に矛盾が出るから。正義がひとつしか無いと、少数派を取り残す可能性がある。でも基本的には、最大公約数の人間が幸せになれることが正しいと考えた。

             

◆少数派はどうなる 少数派は別の正義で救われるのではないか。「差別はいけない」とか「自分にするように隣人に親切にせよ」とか。仮に人数のみを重視したら、大きな組織と小さな組織の争いでは大きい方が正しくなってしまう。あるいは争いの当事者のみに目を向けて、陰で操る者の存在を忘れてしまう。

どちらを勝たせるのでもない、争いの起きない方向に向けることが正義のはず。それは、時代によっても少しずつ変わるのかも知れない。

◆人間を幸せにするか? 最近できた制度や法律に当てはめてみた。それは多くの人を幸せにするためにつくられているか? 私の頭で考えられる範囲では、そう思えないものも多い。特定の誰かが得をする仕組み。つまりそれは正しくはないと思う。(人間だから生きている間は法律に従うけれど)

家庭内や社内や学校のクラス内など、比較的小さな場ではわかりやすい。そのメンバー全員が笑顔になれる決まりが正しい。

◆我が家の正義を考える 実は「床に物を置きたくない」とずっと前から思っている。7年前の引越し直後には、生活を変えようと工夫もした。床に何も置かなければ、まず掃除がしやすい。部屋を広く使える。マグカップを蹴飛ばしてコーヒーをこぼすこともなくなる。様々なコードにつまづいて転びそうにならなくて済む。

でもたった2名の家族ですら正義を行使できない。ということは、正義ではないのか。床に座って手元に飲み物を置いてパソコンに向かうのが夫の幸せなら、それを奪うわけにはいかない。私も片付け好きというわけではないので、この案件は我が家の正義向けではないのね、残念。