いつか愛せる

DVのその後のことなど

心が綺麗とはどういうこと?

 過去の記事を読み返して考えた。私は自分がひどく傷ついた後に、精神も汚れてしまったと思ったことが書いてある。それまで持ったことのない怒り、恨み、憎しみ、軽蔑etc.を感じたから。こんな目に遭わなければ、私は真っ白とはいえないまでもドロドロではなかったのに、と思ってさらに恨みが募った。↓

  でも、今は考え方が変わってきたかな。 

私が、元々嫌な感情も持てる人間だから持ったんだよね(←当然なので悪いとは思っていない)。たまたまそういう感情が発動するような目に遭っていなかっただけ。

もし環境に恵まれたまま生きて、歳をとって「誰も恨んだことのない自分は善良だわ」と思うとしたら。それは単に私が経験値の少ない子どものような人だから。

恵まれた環境にあっても深い人生を送る人はあると思うけれど、多分、私はぼ~っと生きてしまうと思う。クレマチス花言葉は「美しい心」「深い思いやり」)

             

 犯罪を起こした人の言葉を読む時「なぜそんな考え方をするの」と思うことがある。そしてその人が非常に辛い子ども時代を過ごしたと知ることもある。私もその立場だったら、同じ様に考えるのかも知れない。

でも過去が不遇でも、犯罪も犯さず自分を殺すこともなく素敵な生き方をする人はいる。何が分かれ道になるのかな。

 乳幼児のころには本人に何の責任も選択肢もない。今風に言うと親ガチャに外れただけ。でも少しずつ考える力がつき、話す言葉の語彙もふえる。その時に、助けを求めることの出来た子が助かるのではないだろうか?

 私は引っ込み思案な子どもだったから、生きる力は弱い方だった気がする。もし生存競争の激しい場所に生まれたら、生き残れなかったかも知れない。

誰かに「助けて」と言った子、「たすけて」と書いたり、たまたま手を差し伸べてくれた人の手をしっかり掴んだ子は、助かる可能性が高い。助けに気付く力も必要かも知れない。神様は本気で助けを求める人間を助ける。

それをしなかった、あるいはしても足りなかった事までその子の責任と考えるのは、とても残酷であるけれど・・・でもそれが生きる力なのかも知れない。運以外の要因をそれしか思いつけない。

 では、助けを求める力はどこから来るだろう。きっと、自分の感情に正直でいることだと思う。嫌なことは嫌、辛いことは辛いという感情を、無視したり曲げたりしないこと。本来、幼い子の心は正直で、誰もがそんな力を持って生まれる。求める以前に「嫌だ」と言うだけで助かる場合もあると思う。

 

 私がDVに遭った時、自分の感情を殺して何年もその場に留まった。それは、世間体とか執着とか、大人が身に着けた余計なものが邪魔したから。自分に正直になることは歳を重ねるほど難しくなる気がする。

 でも何歳だろうと、私はもっと正直になりたいと思った。それは対外的に我がままになるという意味でなく、感情を自分が認めること。例えそれが不都合に思えても、自分がどれだけ自己中心で嫌な人間かを知ることになっても。

 心のきれいな人ってどんな人だろう。すごく漠然としたイメージで、マザーテレサナイチンゲールを思い浮かべた。生き方や行動から、心がきれいだと推測される人。

彼女たちは不遇な目にあわなかったから心が美しいの? 違うと思う。行動する人ほど苦労するし嫌な目にも遭う。それを嫌だと思う感情も持っているはず。では、心がきれいに見える人が嫌な感情に捕らわれないのはなぜだろう。

 取り合えず思いついたのは。感情にふたをしないからかな。自分に隠さず、都度感情のお掃除を出来るからきれいなのでは? ということ。マザーテレサナイチンゲールも、あるいは美しい詩を書いた金子みすゞも、きっと自分の心がきれいなどとは考えもしないだろうなあ。