Amazonに本のレビューを載せようとした時のこと。自分が下書きした感想を読み直して、なぜか「違う!」と感じた。そもそも何だか書きにくかった。
なぜだろ。多分、理由はふたつ。ひとつは、あのレビューは購入を考える人に情報を与える目的だということ。つまり感想ではなく書評。
特にサバイバーが書いた本については、私は自分語りの感想しか書けない。11月21日の記事に書いたのは、絶対に書評にはならない私の拙い感想。
ここは私のブログだから、それでも構わない。私の自分語りが入っても誰も文句は言わない。でもAmazonに同じことを載せたら、邪魔だと思う。
もうひとつは説明が難しい。恐らく、私はサバイバーが書いた本は当事者目線で読むのだと思う。それでいてあの本は、自分の感情を守るために心を半分閉じたような状態で読んだ。だから淡々とした感想しか出てこない。
その淡々とした自分に、当事者目線の自分が「違う。著者がどれだけ辛かったと思ってるんだ」と突っ込んでくる。私は彼女の苦しみをほとんどわかっていないと責める。こんな失礼な感想を出せるものか、と引っ張る。
著者の苦労のおかげで得られた知識や情報やシェルターに対して、あるいは著者が身につけてこられた強さに対して、尊敬の念を伝えたい気持ちもある。
でもその点だけを書いてみた自分の文章は、とても薄っぺらく見えた。感情を半分閉じて書くからそうなるのか。
(ブルーベリーの花言葉は「実りある人生」「有意義な人生」「知性」など)
あの本のレビューを読むのは、著者と似た経験をされた方も少なく無いはず。著者のみならず、読み手にも不快な思いをさせたくない。
数日悩んでレビューを載せることは諦め⭐️だけは付けさせていただこうと家族のアカウント借りてみた。自分のアカウントではないから、文章を書くのはなおさら躊躇われる。
でも、レビューを書かないと評価をつけられなかった。(Amazonで購入すればレビュー無しでもつけられるのかな?)
ひとことだけでも何か書こうか、ウダウダとまた悩む・・・・
ブログを書きながら考えた。私は本を他者に紹介する文章を書けない人間なの?
そしてそんなはずはないと考え直した。私は過去に「ベルサイユのばら_エピソード編」の感想を何編も書いている。嬉々として😊妄想も交えて。
その辺の記事はグーグルからのアクセスで今も読まれているようなので、書評としても成立しているのだと思う。
本の内容によっては書けないということかなあ。