いつか愛せる

DVのその後のことなど

記憶の上書き

 特定の場所や物でトラウマ(心的外傷)を刺激されてしまう人に参考にしていただけた経験がある。記憶は良くも悪くも上書きされるというお話。

 私は結婚から6年くらい経ったころ引越をした。家出という名の逃亡をして戻ったときに、夫婦をやり直す目的の引越しだった。引越し後も状況はまた悪化しDVは続いたが、7年目くらいから私は回復のための行動を始めた。そして10年目に「いつか愛せる」を書いた。

 トラウマ記憶の上書きを体感したのは結婚12周年の記念日だ。記念日といっても贅沢なお祝いはせず、夫の提案で引越し前に住んでいた隣町を訪れた。夫はDV卒業記念のような気持ちだったのだろうか。「この店で服を買った」とか「ここ酔っ払って歩いたなあ」と懐かしみながら歩いていた。

 でも残念ながら私は楽しめそうにないとすぐ気付いた。駅から家までの道も家の周囲も、どこを歩いても楽しい記憶が出て来ない。引越から6年近く経っていたが、そこを歩いたころの絶望感や恐怖感ばかり思い出した。この場所にある辛い記憶はまるで凍結されていたかのようで、薄まってはいなかった。

 イベントは楽しくしたいので「新しいケーキ屋さんが出来たから行こうよ」と気持ちを切り替えた。かつての自宅を見た後、思い出の無い新しい店でおいしいケーキを食べて帰った。ここまでが実際の経験で、次は私の分析だ。

 引越し後も数年は暴力が続いたので新しい場所にもトラウマの要因はあった。ただ私の変化と回復が始まり、結婚12周年にはほぼ落ち着いていた。私は引越し後の住まいのどこにいても記憶に悩まず、場所によって起こるトラウマは無かったと言える。

 引越す前と後では何が違うのか。街でも家でもなく私の頭の中に理由があると気付いた。記憶の上書きがあるか無いかの違いだ。引越し後の住まいで過ごした6年近くのうち、後半の数年はそこそこ平和な日を重ねていた。だから日常でトラウマを刺激されはしない。

 他方、引越す前の住まいは平和な日々を送ることなく離れた。その地には辛い記憶が剥き出しで残っている。だから剥き出しのままの記憶が出てくる。ということは、引越し前の地でも楽しい出来事があれば記憶が上書きされるだろう。過去の記憶は消えないが、新しい記憶がおおえば生々しさは和らぐ。きっと場所だけでなく、物や季節や人の記憶も同様だろう。

 

 そう気付いたものの、引越し前の地にわざわざ新しい思い出作りに通う気はしない。別にそれでもいいと思った。そしてその必要は無かったと今は思う。大量にトラウマの残る元の自宅さえ大丈夫だと思う。結婚12周年で夫と訪れた記憶が上書きされたからだ。

 あの記念日に、かつての住まいを外から眺めた。結婚したとき私の父が取り付けてくれた入口の手すりがそのまま残っていた。新しい住人が入っているのも確認できた。過去に夫が苦労して車を出し入れした狭い車庫には、大型バイクが止まっていた。ベランダにはサーフボードとウエットスーツが干してあった。

「アウトドアが好きな人みたいだね。持っていけなくて残した高級湯沸かし器、喜んで使ってくれてるかな」

と夫に語った記憶の方が、暴力の記憶より新しい。12周年の記念日に私は重たい気分になりはしたが、夫とかつての住まいを見た記憶は不快ではない。むしろ今となっては意味深く感じる記憶だ。12周年のとき訪れていてよかった。

 たった一度の上書きでも有効だと思うのは、そのとき取り入れた情報が多いためか。家の手すりが残っているのを見たことで、それを付けてくれた父に思いを馳せ記憶が連携される。引越しのとき持っていけなかった高級湯沸かし器は、両親の友人が結婚祝いにくれたものだ。その人にも思いが繋がる。新しい住人の趣味を想像できる情報も追加された。

 それを見ながらその場の空気を夫と共有したのも記憶のひとつだ。だから大丈夫だと思う。それに今はもう家自体が古くて残っていない可能性が高い。生きていれば記憶も風景も更新が続き全部が過去になっていく。

 

 結婚から30年たった今も、引越す前の街を車や自転車で通ることはある。夫の父が晩年に入居した施設からも近い。かつて毎日重い酒ビンや食材を引きずるように歩いた道。ときには泣きはらした顔で逃げ走った道だが、段々気にならなくなった。そこを通る必要があるから通る。私には過去の記憶より現在の生活の方が大切だ。その国道は私にとって普通のありふれた道に変化した。