いつか愛せる

DVのその後のことなど

人生の棚卸と世間の目

 結婚して7~8年目くらいのころ、自分を立て直すために実践したことのひとつが人生の棚卸。方法は簡単だしネットで検索すればすぐ説明が見つかると思う。

 仕事帰りに電車の乗り換え駅でベンチに座り、20~30分せっせとノートに書いた。幼いころのことから結婚後のことまで、思い出すまま書き殴った。当時の私がひとりになれた貴重な時間。書いてどうなるかわからないまま、すがる思いでひたすら書いた。

 正直に振り返ると即効性はなかった。ノートは無くしてしまったので書いたことも確認できない。ただ対暴力でいっぱいだった私の脳みそを、自分に向けることが出来た。書く際も主語を「私」にすることは貫いた。効果は時間をおいてから現れ始めた。

 例をひとつ挙げると、自分の考え方の癖を発見した。周囲にどう見られるかを気にする癖。子どものころ本や少女漫画が大好きだった私は「外で遊んできなさい」と叱られた。外に出ても友達のところに行けないほど内向的で、ひたすら近所を歩いた。その際、同じ道を2回以上通ることは避けた。「何をしているのか、怪しい」と思われそうな気がしたからだ。

 なんて変な心配をする子どもだったろう。それに要領が悪すぎる。今の私がその立場なら、大好きな漫画を隠し持って公園かどこかで読むだろう。なのに「外で遊べ」と言った母の意向を推測し、友達と体を動かす遊びをしなくてはと思う。そんな生真面目で要領の悪い私の性質は、おとなになってもあまり変わらなかった。

 私は夫が暴れることを周囲に知られたくなかった。泣きはらした目と締められた指の跡がくっきりついた首のまま電車に飛び乗った時には、誰の目にもとまらないよう願った。惨めな境遇を隠したかっただけではない。夫が通行人にも危害を加えないか心配で、周囲に迷惑をかけたくなかった。とにかく自分達の状況を知られるのは、世間体が悪かった。

 でもある日ハタと思った。「世間って一体誰だろう」と。自分のイメージでは近所の人、通りすがりの人、付き合いが全くないか、あっても非常に浅い人。とにかく具体的な誰かではない。そういう人を気にして何か得はある? 通りすがりの人に「みっともない」と思われたとしても何が困る? どうせその人は私の味方ではない。その人にとって私は風景でしかないからこちらも同様でいい。そんな発想が湧いた。

 実際には味方になってもらえる可能性もゼロではないが、それには窮地にあると知られなければならず、隠すことに意味はない。世間の目には実態がなく、あるのは私の頭の中。

人に迷惑をかけないことは悪くないし日本人の美徳に違いない。でも自分が責任を持てる範囲を超えてまでは貫けない。やらないのでなく出来ないと自覚した。夫の責任まで背負うことは私の力量を超えすぎている。

 

 私が周りの目を気にするところは母似だなと思った。母は情に熱く気遣いの人だ。だから私はこの価値観に疑いを持たなかった。つまり私が自分で掴んだのでなく親からもらったもの。もらうのは良いが、私は自律した人間として意識して受け継いではいない。だから私には自分の価値観がない。DVでボロボロになった私はしっかりしたおとなになりたかった。DVの勉強はもう十分したので、研究すべきは自分自身だ。

 そしてふと「夫は元々人の目を気にしないな」と思った。彼は天災や病気は苦手だが、人災にはまったく怯まない。日本人離れしているというべきか。私は夫のそういうところを、人に配慮しない欠点のように思っていた。でも夫のように生きる方が楽だろうと気が付いた。

 私はパソコンを修理に出しても「戻りが遅いのは忙しいからだろう」と黙って待つので、当然後回しにされる。子どものころからそんなタチだ。一方、夫は数日待っても連絡がないとガンガン催促する。おかげで早く戻ってくる。同じ料金を払うのに扱いが違うなら、私の生き方は損ではないか。

 欠点しか見えなくなっていた夫に、見習うべき点を見つけた。夫と同じになる気はないが、私も楽な生き方にシフトしようと思った。やっと私は自分で自分の価値観を作っていくことを始めた。DVから立ち直る経験は、間違いなく私を成長させた。