いつか愛せる

DVのその後のことなど

DVと宗教と傍観者と戦争とクリスチャン・ジョーク

 年をまたいで書き続けている記事ですが、今回は脱線ばかりの雑談のようになりました。下記記事の続きです。

引き続き、矢川さんのブログからの引用が青文字で、その他は赤文字、私自身は黒文字です。

DVと宗教問題については私は傍観者の立場でしかない

しかし、いろいろな人間関係の問題を好転させる一番のカギは傍観者集団だと思う。傍観者の意識の中に薄くても共感が芽生えたなら社会は変わるからだ。いじめ問題も暴力も黙ってみている人たちが助長していると言っても過言ではない。

黙って見ている人 久しぶりにそういうご意見に触れて、「二次被害は終わらない」という古い記事を思い出しました。書き手はマツウラマムコさんで「女性学年報」第26号にあります。サブタイトルは「支援者」による被害者への暴力、でした。抜粋します。

DVは社会構造によって生じるのだから、社会の構成員全員に関わった問題といえる。しかし現状では被害を被り苦しむのは被害者だけなのである。そう考えると暴力と無関係な「第三者」というのは存在しない。第三者は「被害と無関係に生きる」という特権に恵まれている。被害者の「安心と安全」の権利を奪っているから「第三者」たちが被害者とならずに「被害者の苦しみと無関係に生きる」という特権を享受しているといえる。

第三者という特権 20年くらい前に読み、当時の私は「ひがみだ」と感じて上記部分には同意できませんでした。支援者の暴力の描写にはもっとページが割かれ、そちらには共感して強く怒りましたが、上記は理解できず。今回引っ張り出して再び読むと、矢川さんのおっしゃることを強烈に表現されたものだと感じました。「黙ってみている人たちが助長している」という部分、確かにそうですね。

あらゆる問題にどっぷり共感していたらとても身がもちませんが、多くの人が様々な問題に少しの理解と少しの共感を持てたら、世の中は変わるでしょう。その延長には、矢川さんが望むように「血縁と家父長制の問題が俎上にあがる」かも知れません。

 

小学生時代にキリスト教が無益だと悟って以来、私は逆に宗教アレルギーになってしまった。

あらゆる宗教は私には全く関係のない事柄で、自分以外の何者かに自分をまかせるなんてことは恐怖でしかない。世界中で宗教のために命を投げ出して戦争を繰り広げているこの地球上の人間たちが全く理解できない。

まかせることの意味 私は今は単なる神様好きなので参考にならないかも知れませんが。人間には自由意志が与えられているので、成り行きをまかせるのは自分が動いた後です。こんなクリスチャン·ジョークを思い出しました。寓話ですがあり得そうです。

ある信仰深いクリスチャンが火事にあった。近所の人が「逃げろ!」と彼を助けに来た。でも彼は「私は神の助けを待っています」と逃げない。次に消防士が彼を助けに来た。でも「私は神の助けを待っている」と逃げない。ついに彼は死んでしまった。

彼が天国に行き「神よ、なぜ祈っても助けてくださらなかったのですか?」と問うと、神は「あなたこそ、なぜ私が2度も助けを送ったのに断ったのですか?」と言われた。

(ナズナの花言葉は「あなたに全てをお任せします」「贈与」「無病息災」など)

            

宗教を語る戦争 宗教のために戦争する人のことは私もわからないと前に書きましたが、想像してみました。戦争を始めるのは恐らく自分の利益を企む権力者で、それに従うのは断れない立場の人たち。殺し合いは双方に多くの恨みを生むので、やがて互いに先祖の仇が理由になって戦いが歴史になってしまう。利益よりも感情の方が強いと思います。実際はもっともっと複雑でしょうけれど、それらが宗教と絡み合っている、あるいは宗教を利用していると考えました。少なくとも聖書に「戦争をしろ」とは書かれていません。

結論としてDVと共依存は謎のままです

理解したくてまなさんの「いつか愛せる」というご本をしっかりとゆっくりと2回も繰り返し読んだのですが、いまだによく分かりません。謎はいつかほどけるかもしれません。傍観者としての私はいつでも知りたい、理解したいと思っていますから。

「どの辺がどうわからないのかな?」と関心を持ちましたが、お返事を求めるのは失礼なのでやめます。私も傍観者でいる問題に対して、知りたい・理解したいと思える人間でありたいです。ただそのためにはエネルギーがいるので、自分の力不足を感じます。

向き合えて活性化する 真剣に「いつか愛せる」を読んでくださって本当にありがとうございました。ご負担をかけてしまったので勝手にお返事を書きながら、私は矢川さんの文章と向き合いました。仮にこの記事を読んでいただけなくても、私の頭と心が活性化する貴重な時間をいただけました。お考えを書いてくださったことに、重ねてお礼を申し上げます。

 ひとまず終了しますが、自分の記事に自分自身が触発されて発見することもあるので、その際はまた関連することを書くかも知れません。ここを読んでくださる皆様にも、お礼を申し上げます。