いつか愛せる

DVのその後のことなど

加害側になってしまうことを想像する

 スランプらしき状態で、介護の話の続きもこのブログの目的である本を書く話もピンと来ず。でも本の下書きは何とか続けたいので、それに近い話題を書きます。

 

◆加害側になってしまうこと 表現するということは、誰かを傷つけることだと最近どこかのブログで読みました。「え!」と驚いた後に「やっぱりそうか」と納得しました。その記事を書いた人は弱者やマイノリティの読み手を意識したようですが、まったく攻撃の意図が無くても読んだ誰かを傷つけ加害になることはありえます。

(アザミの花言葉は「報復」「独立」「厳格」「私に触れないで」など)

              

◆存在だけで痛みを与えてしまう 昔、DVがテーマのサイトを運営していた時のことです。私は自分が攻撃をうけない用心だけでなく、自分が誰も傷つけないようにと神経を使っていました。まさに弱者でマイノリティの当事者がどんなことに傷つくかは身をもってわかり、攻撃をしない配慮はそれほど難しくありません。でも悩んだのは私の立ち位置でした。同じDVサバイバーでも、たまたま私は離婚せずに夫とやり直している少数派です。それを「自分には出来なかった」と責めたり卑下する方が少なくなかったのです。特にクリスチャンはその傾向が強いです。

◆伝わるとは限らない それを回避したくて私は何度も書きました。「私がやり直せたのは私の手柄ではありません」「たまたまの結果論です」と。相手を変える方法を聞きたくて来られる人もあったので「私はそんな方法は知りません」と伝える必要もありました。

私の説明を受け止めてくださる方もあれば、離れる方もあったと思います。受け入れてくれた方とは、自分を癒す話や人生の話で盛り上がれました。

◆方法は無い あのころ感じていたのはこれだと認識しました。どんなに気をつけても、絶対に誰も傷つけない方法など存在しないですね。ひとりひとり状況が違うから、何が攻撃になってしまうかわからない。書かれた言葉は書いた側の思いを伝えるとは限らず、読み手の受け取り方に委ねるしかありません。

だから何かを発表するということは、誰かを傷つけてその人から攻撃を返される可能性もあるということ(←私は怖いのでSNSをやりたくない)有名人ほどリスクも大きく命の危険さえあります。

◆理解して覚悟する なのにまた本を出したい私。もう、覚悟を決めるしかありません。誰でも人に迷惑をかけずには生きていけないのと同じで、表現すれば誰かに痛い思いをさせます。例えどんなにのどかな内容でも。例えば私も、美味しそうな写真いっぱいのブログを見て「こんなに外食できていいなあ」と思うことがあります。ごく普通の家族の日常が書かれていても、両親や子どもや配偶者のない読者から恨まれることだってあるかも知れません。

◆想像力を働かせる 本当は覚悟する自信も無い私です。ですのでまた精一杯の回避の努力をします。こういう表現はこういう人を傷つけることにならないか? と想像力を働かせること。どんなに想像しても私の想像を超える人がいるに違いないので、できる範囲のみです。それでも誰かを傷つけてしまったと知った時には「うまく伝えられなくてごめんなさい」と謝ろうと思います。