いつか愛せる

DVのその後のことなど

スランプの原因と「何を伝えたいのか」

 「書きたい」気持ちが戻り、私の「書けない」スランプは終わったようです。誰にも強制されずこのブログは収益化もしていませんが、私には「いずれは出版」という目標があり書けないと困るのです。以下はスランプの原因を分析します。

 

◆目·肩·腰 ひとつは単純で物理的な疲労です。パソコンに向かう時間が長くて「もう目が駄目!」となりました。仕事でパソコンの使用は必須なので、ブログにかける時間を減らしたい。私は遅筆なので、書く速度を上げるか更新頻度を減らすかですね。よそ様のブログを読む時間も必要です。

◆何を書くか もうひとつは内容です。もともと本の下書きや練習のつもりで始めたブログです。一番伝えたかったのは、傷ついた状態からメンタルが回復した経過や結果。そこに夫との関係の再構築や共依存にもふれたいし、ゆるすことの苦労や意味を書きたい、と思っていました。それが最近、興味の範囲が変化して良くも悪くもブレ始めました。自分が何を伝えたいのか混乱気味です。

              

◆関心の広がりや変化 「介護にも共依存の概念が役立った」「自分の古い著書が専門家に取り上げられたのを知った」。そこでもう少し共依存を追及したくなっています。

また、前から存在は知っていた修復的司法=修復的正義(対話などを通じて加害側は自分の行為を反省し、被害側もそれを通じて自己の受けた被害を納得いくまで考察するというプロセス)が気になっています。「日本で、しかもDVでの実施は困難だろうな」と思いずっと忘れていました。けれど日本でも少しずつ知られてきたらしく、もしかして実現するのでしょうか。かつての私と夫の対話はこの修復的正義に似ていました。知識も無く個人が成り行きでやったわけですが、その効果を知っているので気になります。

◆より日常的なこと もとは関係の再構築のためコミュニケーションに興味を持ち、それから掲示板で自助活動をしてネット上の交流にも馴染みました。言葉の伝わり方次第では関係が壊れるし、発した側に悪意がなくても攻撃になりえます。それが自分のことだと見えにくく、客観的立場だと冷静に見えることもわかりました。

今は人を追い詰めるSNSが社会問題になっています。それがとても嫌で「自分が正義だという考え方はやめようよ」と呼びかけたくなります。

◆商業的な意味 今度は自費出版する気はなく商業出版を狙います。だから出版社に「ある程度は売れる」と思われなくては実現しません。私が書きたいように書くだけでは見向きもされないでしょう。(このブログも、DVより介護の記事を書いた日の方がアクセスが増えます。関心のある人の数がまったく違うのですね)

専門書ならヒットしなくても長く売れて値段も高目設定できそうですが、素人の私には無理です。私が伝えたいことで、且つ多くの人に読みたいと思ってもらえるのはどういう内容か。まだ見当もつきません。

◆夫の提案 「DVの具体的で刺激的な内容を書けよ。俺は気にしないから」と言われました。週刊誌のように目立つという意味では合理的だし、立場上嫌なはずなのにありがたい提案です。でもそれは私が伝えたいことではありません。前の著書に少しは書いて気が済んでいるし、今はDVを描写した本ならたくさんあります。私が書く必要もありません。

例えば共依存克服の説明のためなら、リアルな描写も書きます。私が伝えたいのはDVそのものでなく、あくまでも「そこから立ち直る」こと。だから地味なのですよね。

 

 そんなわけでまたブログを書きながら探ると思います。毎日更新は無理かも知れませんが、介護関連の記事も書くし雑記もイラストも続けます。今後もお付き合いいただけると嬉しいです。